「さかのうえのたむらまろ?歴史の授業で習った気がするな~、どんな人だったっけ?」・・・ 実は、坂上田村麻呂は鬼退治のエキスパートとしても有名な人だったのです!今話題の「鬼滅の刃」にも通じる鬼退治名人、田村麻呂師匠の伝説に迫ります。
坂上田村麻呂とは
坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官です。
4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めました。「征夷大将軍」とは、京都から見て鬼門の位置にあたる東北地方の人々を征服するための役職のこと。当時、都では朝廷の力が及ばなかった東北地方の人々を鬼として認識していたといいます。
『田邑麻呂傳記』や『田村麻呂薨伝』によると、田村麻呂は身長約176cm、胸囲は約36cmの当時としてはかなり堂々とした容姿をしていたということです。また、怒って眼をめぐらせば猛獣もたちまち死ぬほどの恐ろしさだったのに対し、笑って眉を緩めれば子供もすぐ懐に入るような優しさだったそう。
死後は、立ったまま(!)柩に納めて埋葬され、武神や軍神として信仰の対象に。後世においても優れた武人として尊崇されて様々な伝説を生み、学問の菅原道真と武芸の坂上田村麻呂は文武のシンボル的存在とされています。
坂上田村麻呂の伝説
坂上田村麻呂は、史実だけでなく民間伝承の「鬼退治」の英雄としても大活躍します。
三重県・滋賀県にまたがる鈴鹿峠一帯に田村麻呂による鈴鹿山の鬼神討伐の足跡が数多く残されており、さらに東北地方では、岩手県、宮城県、福島県を中心に伝説が多数分布します。そのほとんどは、田村麻呂が神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものです。伝説は広がり続け、関東、中部、畿内、中国地方にまで及びました。
このように後世、坂上田村麻呂にまつわる「鬼退治伝説」が各地に作られ、様々な物語を生んだのです。
鬼退治の伝説 「阿久良王」
「阿久良王」は岡山県倉敷市周辺を拠点に悪さをしていた妖鬼の大将です。畑を荒らしたり、女性をさらったりと悪事をさんざん働き、人々を苦しめていました。そこで、坂上田村麻呂が派遣され、七日七夜の戦いの末、ついに阿久良王は倒れ、死の間際に今までの悪事を悔い、神の使いとなり人々を助けると改心しました。息を引き取ったあと、坂上田村麻呂が首を斬ると、金色の光を放って飛び散り、七十五匹の白狐となって人々を助けたといいます。
坂上田村麻呂の愛刀
坂上田村麻呂が所持していた多くの刀剣のうち、一番の愛刀が「ソハヤノツルギ」です。
これは、田村麻呂が蝦夷の蕨手刀に対抗するために作らせた細身で重ねの厚い剛刀。
3.9cmという太い身幅で美しさよりは力強さという印象の刀剣で、なんと!雷が鳴るとひとりでに鞘走るといわれており、田村麻呂はこれを愛刀にして蝦夷を征伐したということです。
田村麻呂の死後は、天皇家の御剣となって「坂上宝剣」と呼ばれました。その後、徳川家康に献上され、その死に際して久能山に奉納されます。そして明治43年には明治天皇の天覧に供し、翌年国宝に指定されました。
坂上田村麻呂と清水寺
坂上田村麻呂は「清水の舞台」で有名な、京都市京都府にある清水寺を建立した事でも有名です。
建立の時期については、宝亀11年(780年)とするもの、延暦17年(798年)とするものに大別されます。また清水寺の創建については、『清水寺縁起』や『清水寺縁起絵巻』に出てくるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられています。
まとめ
坂上田村麻呂が征夷大将軍として東北地方を征服したのは事実ですが、それが「鬼退治」として語られるようになったのはその土地の伝説によるものからだったのですね。
かなり目立ったルックスで武術に優れた剛健な体つき、怖いだけでなく優しい面も持ち、性格も素晴らしかったといわれる田村麻呂。
「ソハヤノツルギ」という超かっこいい名前の刀でバッタバッタと鬼(蝦夷)を退治していくキャラクターとして、田村麻呂は史実でも伝説でもスーパーヒーローのような存在だったのかも?!